【魔道祖師/陳情令】藍曦臣の空想と自己の抑圧―藍忘機・聶明玦との対比から読む人物論―

 藍曦臣、姓名を藍渙、世人は彼を澤蕪君と尊称する。常に温和な笑みをたたえ、物腰やわらかで品があり、弟の藍忘機と合わせて「藍氏双璧」と称されるほど仙師としての実力も折り紙つき。先代藍氏宗主であった父の死後、長子である藍曦臣は姑蘇藍氏の家主を継ぎました。
 ドラマ『陳情令』視聴中、藍曦臣に対してはじめに抱いた印象は典型的な「優等生型長子」でした。恐らく、間違ってはいないのです。しかし筆者は、このいかにも浅慮な印象に対する違和感を、視聴をすすめるたび徐々に胸の内にため込むことになります。ちょうど射日の征戦後、藍曦臣、聶明玦、金光瑶の三名が義兄弟の契りを結んで以降でしょうか。恐らくこの結拝の後、それまで藍曦臣に対して抱いていた印象に少なからぬ違和感を感じるようになった視聴者は、決して筆者だけではないと思うのです。
 その違和感の正体を明確にせず、つかみあぐねたまま視聴した最終三話で、筆者は藍曦臣という人物の愚かで冷たい空洞のような性分を目の当たりにし、情緒をめちゃくちゃにかき乱されることになりました。最悪です。最終話視聴後、藍曦臣という人物に対する漠然とした違和感が、まるで喉に刺さった魚の小骨のようにいつまでも残り続けているのです。最悪です。しかし彼の作品における役割も、本人の個性も魅力的なので気になってしまい仕方がありません。

 本稿の目的は、藍曦臣という人物に対して筆者が感じた違和感を明確に言語化することで、喉に刺さり続ける魚の小骨を取り除くことです。そのため以下の文章では、中国語版『魔道祖師』原作の本文(と筆者による日本語訳)を引用しながら、また特に藍曦臣との関連が深い藍忘機・聶明玦という二名のキャラクターとの対比を通し、藍曦臣というキャラクターに人物論の観点から言及していきます。
 本稿で筆者が考える人物論は、すべて筆者が個人の視点から独自に論じるものであり、他者の考察や二次創作を否定する意図は一切ございません。
 なお本稿には、原作小説『魔道祖師』本編ならびに番外編、実写ドラマ『陳情令』のネタバレを含みます。

1、無自覚的に抑圧される「欲求」

 藍曦臣について論じる上でまず触れるべきは、やはり彼が身を置いた幼少期の特異な環境です。彼自身とその弟である藍忘機を取り巻く幼少期の環境について、魏無羨に語る内容を原作本文から引用します。欠かせない部分になりますので、引用が長いです。また、筆者による日本語訳に誤訳等ありましてもご容赦ください。

蓝曦臣在龙胆花丛边俯下身来,温柔地抚弄着那些娇嫩轻薄的花瓣,道:“我父亲在年少的时候,一次夜猎回程途中,在姑苏城外遇上了我母亲。”他微微一笑,道:“据说,是一见倾心。”
魏无羡也笑笑,道:“年少多情。”
蓝曦臣却道:“可这女子对他并没有倾心,并且,杀死了我父亲的一位恩师。”
这当真是超乎想象,魏无羡明知追问是很失礼的事,但一想到这是蓝忘机的父母,便觉不能不问,道:“为什么?!”
蓝曦臣道:“我不知,但想来无非‘恩怨是非’四个字罢了。”
魏无羡不便深究,强行按下,道:“那……然后呢?”
“然后,”蓝曦臣道:“我父亲得知真相,自然是很痛苦。但再三挣扎,他还是秘密把这女子带了回来,不顾族中反对,一声不响地和她拜了天地,并对族中所有人说,这是他一生一世的妻子,谁要动她,先过他这一关。”
魏无羡睁大了眼睛。
蓝曦臣继续道:“礼成之后,我父亲便找了一座屋子,把我母亲关起来,又找了一座屋子,把自己也关起。名为闭关,实为思过。”(第64章)

【藍曦臣は竜胆の茂みに身体をあずけ、瑞々しく繊細な花弁をやさしく撫でた。「父が若い頃、夜狩から帰る途中に姑蘇の街で母に出会った」彼はわずかに微笑んだ。「一目で心を奪われたらしい」
魏無羨は「若者は感情豊かだ」 と言って笑った。
藍曦臣は言った。「しかし、母は父に心を奪われておらず、それどころか父の恩師までをも殺した」
それはあまにも想像を絶する事実であった。魏無羨とて問い詰めるなど不躾であると分かってはいたが、これが藍忘機の両親であると考えるだけで、理が非でも問わずにはいられなかった。「なぜ?!」
藍曦臣は「わからない。きっと、恩仇が理由に他ならない」と答えた。
魏無羨は居たたまれず、体裁の悪さを強引に抑えてさらに問い詰めた。「それで……それから?」
「それから、」藍曦臣は続けて言った。「父は真実を知り、いたく苦しんだ。しかし、父は幾度も悩み、熟慮した結果、密かに母を連れて帰り、一族の反対も顧みず、ひっそりと祝言を挙げたのだ。そして父は、一族のすべての人に宣言した。彼女は私が生涯で唯一愛する妻であり、追い出したいのならば、まずは自分を討つのだと」
魏無羨は瞳を大きく見開いた。
藍曦臣は続けて語った。「祝言の後、父はこの静室を見つけ、ここに母を閉じ込め、また自分も別の建物に籠った。修行と言うが、その実、悔悟と言えるだろう」】

半晌,蓝曦臣低声道:“我父亲这么做,可以说是不顾一切了。(中略)待到我和忘机出生,立刻把我们抱出来给旁人照料,稍大一点,便交给叔父教导。
“我叔父……原本就性情耿直,因我母亲的事,导致我父亲自毁一生,更是格外痛恨品行不端者,因此他教诲我与忘机也格外尽心,格外严厉。每个月我们只能见到母亲一次,就在这座小筑里。”
两个年幼的孩子,整日面对的只有严厉的叔父,严格的教导,堆积成山的书卷,再累再倦也要把稚嫩的腰杆挺得笔直,做族中最优秀的子弟,旁人眼中的楷模标杆。常年不得与至亲见面,不能在父亲怀里打滚撒野,也不能抱着母亲依偎撒娇。
可分明他们什么也没做错。
蓝曦臣道:“每次我与忘机去见她,她从不抱怨自己被关在这里寸步难行有多苦闷,也不过问我们的功课。她尤其喜欢逗忘机,可是忘机这个人,越逗他就越不肯说话,越没好脸色,从小就是这样。不过,”他笑了笑:“虽然忘机从来不说,但我知,他每月都等着和母亲见面的那一日。他如此,我亦然。
魏无羡想象了一下年岁尚幼的蓝忘机被母亲搂在怀里、雪白的小脸蛋涨得粉红的模样,也跟着笑出来了。可笑意还未散去,蓝曦臣又道:“但有一天,叔父忽然对我们说,不用再去了。
“母亲不在了。”
(中略)
他道:“那时候太小,还不懂什么叫‘不在了’,不管别人怎么劝慰,叔父怎么斥责,他每月都继续到这里来,坐在廊下,等人给他开门。等后来大了一点,明白了母亲不会回来了,不会有人再开门,他还是会来。”(第64章)

【しばらくして、藍曦臣は低い声で語りはじめた。「父も後先顧みなかったのだろう。(中略)私と忘機が生まれるとすぐに他の者に世話をさせ、少し成長すると叔父に教導させた。叔父は……もともと実直な人で、母のせいで父は自分の一生を台無しにしたのだと言って、とりわけ品行の悪い者を激しく憎んだ。私と忘機への教育にもますます心を砕くようになり、厳しさは増す一方だ。私たちは毎月一度だけ、この建物で母に会うことを許されていた」
二人の幼い子供たちは、一日中厳しい叔父だけに接し、厳格な教えと、山積みの書物に向き合った。どんなに疲れていても、やわらかい腰をまっすぐと伸ばして、一門で最も優秀な子弟となり、人々の目に模範的に映るように。常に両親と会うことはできず、父親の腕に抱かれることも、母親を抱きしめて寄り添い、甘えることもできなかった。
彼らに何も非がないことは明白である。
藍曦臣は言った。「私と忘機が会いに行くたび、母は自分の置かれた状況がどれだけ苦しくても不満を言うことはなく、私たちに修行のことも聞かなかった。母はとりわけ忘機をあやすことが好きで、だが忘機は、世話を焼かれるほど口数が減り、表情も固くなる。子供の頃から変わらない。でも、」彼の表情に笑みが浮かぶ。「忘機は一度も言わなかったが、私にはわかる。毎月、母と会う日を待ちわびていた。忘機がそうであったように、私もまた
魏無羨はまだ幼い藍忘機が母の腕に抱かれ、白くあどけない頬が薄桃色に染まる様子を想像し、つられて笑わずにはいられなかった。しかしこの笑みが消えないうちに、藍曦臣は再度語り始めた。「だがある日、叔父が突然私たちに言った。もう行く必要はない。
母はもういない、と」
(中略)
「当時は幼すぎて、「もういない」の意味がわからなかった。誰が慰めても、叔父が叱責しても、忘機は毎月ここへ来て、廊下に座り、戸が開くのを待っていた。その後成長し、母はもう戻らず、この戸を開ける人はもういないことを理解した。それでも、忘機はまだここへ来た」】

 兄弟の母親は、雲深不知処に居を構えながら長く軟禁状態にありました。父親も修行と称して世俗との関わりを断ち、兄弟に会うことはありません。兄弟が母親に会うことができるのは、月にたった一日だけ。その一日を除いて、幼い兄弟が接するものは、厳格な叔父による厳しい教育、山積みの書物と三千の家規です。〈毎月、母と会う日を待ちわびていた。忘機がそうであったように、私もまた〉とあるように、彼らは母を愛しており、母に会えるたった一日を心から待ち望んでいました。齢十歳にも満たない子供なのですから、当然です。
 しかし、彼らの母親が亡くなると、この状況は一変します。〈当時は幼すぎて、「もういない」の意味がわからなかった〉これは当然の反応でしょう。藍曦臣も藍忘機も、当時は母が亡くなったことを理解できていなかった。〈誰が慰めても、叔父が叱責しても、忘機は毎月ここへ来て、廊下に座り、戸が開くのを待っていた〉これもまた、母が亡くなったことを理解できない幼子の反応として当然です。
 では、藍曦臣はどうでしょう。原作小説では、この時藍曦臣がどのように振る舞ったのかについて、一切言及されていません。しかしドラマ『陳情令』を見ると、彼は厳格な叔父と共に、母を待ち続ける藍忘機を慰める役割を負っています。藍曦臣は藍忘機のように、恋しい母の帰りを頑固に待ち続けることができなかったのです。なぜなら、彼は「兄」である。それが理由に他なりません。
 〈毎月、母と会う日を待ちわびていた〉幼い藍曦臣が、母に甘えたい、もう一度会いたいという欲求を有していないはずがありません。しかし彼はこの時、母を待ちたいという「欲求」と、藍忘機の兄であるという「責任」を天秤にかけて後者を選び、己の欲求を自ら抑圧しているのです。
 一見すると、物分かりがよく、立派な兄のように見える藍曦臣。しかしそれは、齢十歳にも満たない幼子が負うべき「責任」でしょうか?
 ここで、原作小説番外編「莲蓬」の一場面を引用します。「莲蓬」で描かれるのは、成長した藍曦臣・藍忘機兄弟のとある夏の出来事です。
 雲深不知処で催された座学のあと、藍忘機は親交を結んだ魏無羨に「茎のある蓮の花托は、茎のない蓮の花托より実がおいしい」と聞かされます。藍忘機はこの真偽を兄に尋ねますが、弟同様、雲深不知処育ちの藍曦臣には知る由もありません。そこで藍忘機は翌日、山を越え川を渡り、最終的に三十四里もの道のりを経て、己の手で蓮の花托を摘みに行きます。
 以下の引用は、摘み取った蓮の花托を持ち帰った藍忘機が、それを兄へこっそり分け与える場面です。

小筑门前的木廊上放着一只白玉瓶,瓶里盛着几枝高高低低的莲蓬。
玉瓶修长,莲茎亦修长,姿态甚美。
蓝曦臣收起裂冰,在木廊上临着这只玉瓶坐下,侧首看了一阵,心内挣扎
最终,还是矜持地没有动手偷偷剥一个来吃吃看,带茎的莲蓬到底味道有什么不同。
既然忘机看上去那般高兴,那大概是真的很好吃吧。(「莲蓬」)

【建物の入り口、その手前の廊下に白玉の花瓶が鎮座しており、花瓶には大小様々な蓮の花托がしなだれている。
花瓶は細長く、蓮の茎もまた細く伸びて、姿かたちは非常に美しい。
藍曦臣は手に持った裂氷を懐にしまい、花瓶の近くに腰を下ろすと、首をかしげ、しばらく眺め、その心中は複雑に葛藤を繰り返した
熟慮の末に、こっそり皮を剥いて食べてみることはどうにも憚られ、ついぞできなかった。茎のある蓮の実は、一体どのような味がするのだろう。
忘機は嬉しそうに見えるので、きっと美味しいに違いない。】

 幼い頃から抑圧されることを覚えた藍曦臣の欲求が、成長してどのように変化するか。はじめは抑圧するべきか否か天秤にかけ、仕方なく抑えていたものが、そうするまでもなく抑圧されることが習慣になってしまうのです。
 上記の引用部において、藍曦臣が「蓮の実を食べてみたい」という欲求を抑圧する必要はありません。藍曦臣が蓮の実を食べることで彼の責任にきたす支障など一切なく、弟に与えらえた蓮の実を食べることが家規や道理に反するわけでもありません。しかし彼は己の欲求を前にして不要な葛藤を繰り返し、結局蓮の実を食べることはできず、最終的に欲求を抑圧することで心に平穏を取り戻します。
 これが藍曦臣と藍忘機、二人の兄弟の大きな相違点です。藍忘機は「したいこと」という「欲求」と「するべきこと」という「責任」を自身の中で明確に区別できており、そのうえで「責任」を優先的に選ぶことができるのです。己の「欲求」と「責任」を比較した時、その「欲求」が家規や道理に反する場合、彼は「模範的な子弟である」という己の「責任」にしたがって「欲求」を抑圧することができる。
 ゆえに「責任」に「欲求」を妨げられない時、藍忘機は山を越え川を渡り、三十四里もの道のりを経て、己の手で蓮の花托を摘みに行くことさえためらわないのです。己の欲求に対し、非常に正直に生きています。
 しかし藍曦臣は弟と異なり、己の「欲求」と「責任」の乖離に自覚的ではありません。幼い頃から欲求を抑えなければならない環境にあった影響でしょうか、その善悪を問わず己の欲求を抑圧しようとする悪癖があります。そうでなければ、弟によって与えらえた蓮の実を、食べてみたいと望みながら見過ごすという選択肢はありえないはずです。己の欲求に正直な藍忘機に対し、藍曦臣はそもそも己の欲求に対して自覚的ではないのです。

2、「欲求」と「責任」の齟齬

 己の「欲求」と「責任」の乖離に自覚的でない藍曦臣ですが、まだ父が存命であり、彼が家主の立場にない時分は、恐らくこの無自覚的な自己の抑圧に不都合が生じることはなかったでしょう。というのも、雲深不知処という外界から隔絶され、厳格な規律に支配されたある種の箱庭的空間に庇護されている限り、彼の欲求と責任の間に決定的な齟齬が生じることはなかったはずです。むしろ、雲深不知処の特殊な環境が、彼の抑圧行為を無自覚的なものにしたと考えることもできます。
 しかし先代宗主であった父が亡くなり、家主を継げば、外界との関わりを避けて通ることはできません。家主として射日の征に身を投じ、世俗との親交を結ぶなかで、彼の欲求と責任の間には徐々に齟齬が生じ、そのギャップに直面することになります。

谁知,未清净多久,一名身穿金星雪浪袍的男子忽然走了过来,一手一只酒盏,大声道:“蓝宗主,含光君,我敬你们二位一杯!”
此人正是从刚才起就一直四下敬酒的金子勋。(中略)
“咱们金家蓝家一家亲,都是自己人。两位蓝兄弟若是不喝,那就是看不起我!”
一旁他的几名拥趸纷纷抚掌赞道:“真有豪爽之风!”
“名士本当如此!”
金光瑶维持笑容不变,却无声地叹了口气,揉了揉太阳穴。蓝曦臣起身婉拒,金子勋纠缠不休,对蓝曦臣道:“什么都别说,蓝宗主,咱们两家可跟外人可不一样,你可别拿对付外人那套对付我!一句话,就说喝不喝吧!”(第72章)

【しばらく心静かであった二人(※注① 藍曦臣、藍忘機)の前に、金星雪浪の上衣を身に纏った男が突然やって来ると、手に持った酒杯を掲げ、大声で言った。「藍宗主、含光君、お二人に一献捧げよう」
この人は、今しがたまで絶えまなく酒を勧めてまわっていた金子勳である。(中略)
「金家と藍家は仲が良く、家族も同然である。お二人がもし杯を受けぬとなれば、それは私を侮辱したと同義に違いない!」
彼を支持する幾人かの人々は手を打って、「実に豪快である!」「あるべき名士の姿だ!」と叫び、称賛した。
金光瑶はどうにか笑顔を保ち、静かにため息をつき、こめかみをわずかに揉んだ。藍曦臣は立ち上がって遠まわしに拒絶したが、金子勳はしつこく藍曦臣に言った。「藍宗主、言うまでもなく私たちは他人ではない。他人行儀に接するのはやめてくれ!話は簡単、飲むか、飲まないかだ!」】

 上記の引用は、金氏が主催した夜狩大会の後、続けて催された宴会における一場面です。藍氏の家規には飲酒の禁止が定められており、しかしそれを知りながら金子勳は藍曦臣、藍忘機に己の杯を受けるよう強要します。
 原作ではこの後、藍曦臣が杯を受ける前に魏無羨が乱入して事なきを得るのですが、ドラマ『陳情令』では魏無羨の乱入が少し遅く、金子勳に迫られた藍曦臣は仕方なく杯を煽ります。原作においても、藍曦臣の拒絶は遠まわしなものにすぎず、明確な拒絶の意思を表明することはできていません。なぜなら、彼は世家の家主という立場である以上、世家間の調和を乱すことができないのです。もし魏無羨の乱入が遅ければ、恐らく原作の藍曦臣も杯を受けざるを得ない状況にあると言えるでしょう。
 この場面では、杯を拒絶したいという「欲求」と、家主としての体裁という「責任」の間に決定的な齟齬が生じており、そのうえで藍曦臣は己の欲求を抑圧し、家主としての責任を優先しています。
 以下、もう一点別の描写を引用します。魏無羨が温情、温寧ら温氏の人々と共に乱葬崗に立てこもった後、四大世家はその処分について議論します。

聂明玦道:“有恩是怎么回事?岐山温氏不是云梦江氏灭族血案的凶手吗?”(中略)
蓝曦臣沉吟道:“这位温情的大名我知晓几分,似乎没听说她参与过射日之征中任何一场凶案的。”
聂明玦道:“可她也没有阻拦过。”
蓝曦臣道:“温情是温若寒的亲信之一,如何能阻拦?”
聂明玦冷冷地道:“既然在温氏作恶时只是沉默而不反对,那就等同于袖手旁观。总不能妄想只在温氏兴风作浪时享受优待,温氏覆灭了就不肯承担苦果付出代价。”
蓝曦臣知道,因家仇之故,对温狗聂明玦是最为痛恨,他又是完全容不得沙子的性情,便不再言语。(第73章)

聶明玦は言った。「恩があるから何だと?岐山温氏こそ雲夢江氏族殺の張本人ではないのか?」(中略)
藍曦臣は低い声で言った。「温情の名声は私もいくらか知っている。射日の征においても、彼女が殺戮に加担していたという話は聞かなかったはず」
聶明玦は「しかし阻止もしていない」と言った。
藍曦臣は言った。「温情は温若寒の腹心の一人だったのだ。どのように阻止できると?」
対する聶明玦の声は冷ややかだった。「温氏が悪事を働くとき、黙って反対しなければ、それは傍観と同じだ。温氏が権勢を誇る時は優遇され、温氏が敗れた時は報いを受ける必要はないとでもいうのか」
藍曦臣は、家族の仇ゆえに聶明玦が温狗を心から憎んでいること、また憎むものを全面的に許容できない性質であることを知っていたので、それ以上口を開くことはなかった。

 ここで藍曦臣は、罪のない温氏の人々を討伐することに反対の意思を示しています。彼は厳格な規律に支配された雲深不知処で、実直な叔父の教育を受けて育った善良な人間であるため、罪なき人々を救いたいという立場は彼の善良な欲求に基づくものです。しかし聶明玦をはじめとする世家の代表者たちは、そろって温氏の残党討伐に賛成の立場を示します。すると、藍曦臣は藍氏の家主として世家間の調和を取らなければならないという責任と、それに反する己の欲求とを天秤にかけなければならなくなり、最終的に彼は己の欲求を抑圧し、家主としての責任を優先します。
 世俗の善悪の基準は家規のように単純でも明確でもなく、己の尺度や視座で定めることができるものでもありません。ゆえに世俗に身を投じれば投じるほど、藍曦臣の善良な人格に基づく欲求と、世家の家主として果たすべき責任の間には常に齟齬が生じ続けるのです。
 そして「欲求」と「責任」の乖離を自覚した以上、彼はそれら二つの間にうまく折り合いをつける必要があるわけです。

3、自己を守る空想の箱庭

 本稿のはじめに、筆者は射日の征戦後、藍曦臣、聶明玦、金光瑶の三名が義兄弟の契りを結んで以降、藍曦臣に対して漠然と違和感を抱くようになったと述べました。そして先の章で述べたとおり、この頃から藍曦臣は己の「欲求」と「責任」の間に生じる齟齬を自覚せざるを得ない状況に置かれています。
 ゆえに、藍曦臣は家主という立場を負う以上、己を殺し、欲求と責任の乖離に折り合いをつける必要があるのですが、筆者の感じた違和感というのは、まさにこの「折り合いをつける」ために生じた人心のバグ、欠陥のようなものに他なりません。
 まずは、藍曦臣の人心にまつわるすべての因果の発端とも言える三尊の結拝について、それに至る経緯を原作本文から引用します。

魏无羡也曾奇怪过,自从孟瑶叛离清河聂氏后,聂明玦与他的关系便不比从前了,那后来又是为何要结拜?据他观察,想来除了蓝曦臣一直希望二人重修于好,主动提议,最重要的,大概还是念了这份救命之恩,承了这份传信之情。算起来,过往他那些战役中,多少都借助了孟瑶通过蓝曦臣传递来的情报。他依然觉得金光瑶是不可多得的人才,有心引他走回正途。(第49章)
【魏無羨はまた、このように考えた。孟瑶が清河聶氏を離反した後、彼と聶明玦の関係は以前ほど良好ではなかったはずである。その後、なぜ彼らは義兄弟の契りを結ぶに至ったのだろうか。魏無羨の見解によると、藍曦臣は彼自身を除く二人の関係の修復を一心に望み、自らすすんで提案をしたに違いない。何より彼は孟瑶に対し、命を救われた恩に報い、密書をしたため続けた情を認めてやりたかったのだ。考えてみると、射日の征において孟瑶が藍曦臣を通して伝達した情報に、聶明玦も多かれ少なかれ助力を得た。彼はいまだに金光瑶が得難い才知の持ち主であると認めており、正道を歩ませたいと考えている。

 上記の引用からは、結拝を申し出たのが藍曦臣であることと、その動機を読み取ることができます。この時藍曦臣は、孟瑶の恩に報いるべきであるという責任と、孟瑶と聶明玦、両者の関係の修復を願う欲求、この二つが目的として一致したために結拝を提案したのです。
 そして聶明玦はというと、〈金光瑶が得難い才知の持ち主であると認めており、正道を歩ませたいと考えている〉ために、藍曦臣の提案に同意しました。金光瑶に〈正道を歩ませたい〉と考える彼の心算については、孟瑶が聶氏を離反するに至った出来事までさかのぼって考える必要があります。
 ドラマ『陳情令』において孟瑶は、温氏の不浄世襲撃に乗じ、日常的に己を嘲る聶氏の子弟を殺害します。しかし、その一部始終は聶明玦に目撃されており、孟瑶はその咎により釈明もむなしく聶氏を追放されます。
 この一連の出来事、実は原作からわずかに改変が加えられており、孟瑶と聶明玦が反目し合うに至るまでに少し異なる経緯があります。原作において聶明玦は、副使として仕える孟瑶の「金氏で父の承認と立場を得たい」という願いを叶えるために紹介状を書き、彼を金氏へと送り出します。金氏でもその才知を存分に発揮することを望まれ、送り出された孟瑶ですが、彼は金氏においても日常的に見下され、出自を嘲られる日々を過ごします。そこで彼は『陳情令』同様に温氏の襲撃に乗じて金氏の子弟を手にかけます。以下の引用は、聶明玦に共情した魏無羨が、聶明玦を通して一連の出来事を目の当たりにする場面です。

聂明玦把这一幕看在眼里,一句话也没说,刀锋出鞘一寸,发出锐利的声响。
听到这个熟悉的出鞘之声,孟瑶一个哆嗦,猛地回头,魂魄都要飞了:“……聂宗主?”
聂明玦将鞘中的长刀尽数拔了出来。刀光雪亮,刀锋却泛着微微的血红色。魏无羡能感觉到从他那边传来的滔天怒火,和失望痛恨之情。
孟瑶是最清楚聂明玦为人的,哐当一声弃了剑,道:“聂宗主、聂宗主!请您等等,请您等等!听我解释!”
聂明玦喝道:“你想解释什么?!” 孟瑶连滚带爬扑了过来,道:“我是逼不得已,我是逼不得已啊!”
聂明玦怒道:“你有什么逼不得已?!我送你过来的时候,说过什么?!”
孟瑶伏跪在他脚边,道:“聂宗主,聂宗主你听我说!我参入兰陵金氏旗下,这个人是我的上级。他平日里便看不起我,时常百般折辱打骂……”
(中略)
聂明玦看着他热泪盈眶、瑟瑟发抖的模样,与他方才那冷静杀人的一幕对比太过强烈,因此冲击力太大了,画面还未消退。(中略)
半晌,聂明玦慢慢把刀收回了鞘中,道:“我不动你。”
孟瑶忽的抬起头,聂明玦又道:“你自己去向兰陵金氏坦白领罪吧。该怎么处置就怎么处置。”(第48章)

【聶明玦は一連の出来事を目の当たりにして、言葉を失い、鞘からわずかに引き抜かれた刀は鋭い音を立てた。
よく聞き知った金属音に孟瑶は身震いし、にわかに振り返ると、魂を失ったように呆然として立ち尽くした。「……聶宗主?」
聶明玦は鞘に納まる刀をすべて引き抜いた。刀身は白く光り、切っ先はわずかに血のような赤色を帯びている。魏無羨は彼から伝わる天を衝かんばかりの激しい怒りと失望感、そして憎しみを感じ取ることができた。
孟瑶は聶明玦の気性を非常によく理解しており、手に持った剣を音を立てて地面へと放った。「聶宗主、聶宗主!お待ちください、お待ちください!私の話を聞いてください!」
聶明玦の声音には怒りが滲んでいる。「何を話すというのだ?!」
孟瑶は慌てて地面を這うようにやって来て、「私はやむを得ず、こうする他なかったのです!」と嘆いた。
聶明玦は怒鳴った。「一体何がやむを得なかったというのか?!お前を金氏へ送り出したとき、私は何と言った?!」
孟瑶は聶明玦の足元に跪いた。「聶宗主、聶宗主、聞いてください!私は蘭陵金氏に参与しました。この人は私の上官です。しかし彼は日常的に私を見下し、辱め、罵ったのです……」
(中略)
聶明玦は熱い涙を流し、震えながら孟瑶を見つめた。たった今目にしたばかりの、粛々と行われた殺戮に受けた衝撃は大きく、先の光景が依然として脳裏をよぎる。(中略)
しばらくすると聶明玦は刀をゆっくりと鞘に納め、「私はお前を信じない」と言った。 孟瑶が勢いよく顔を上げると、聶明玦は再び言った。「お前は自ら蘭陵金氏に赴き、罪を認め、打ち明けるのだ。そうすれば相応の処罰が下されるだろう」】

 聶明玦はこの時、それまで己が信じていた姿とは異なる孟瑶の一面を目の当たりにし、〈激しい怒りと失望感、そして憎しみ〉を感じています。聶明玦は〈雷厉风行〉(原作第13章)な人物であり、非常に厳格で公明正大な人物として描かれています。ゆえに、たとえ己の知らない孟瑶の姿を目の当たりにしたとしても、それを己の目で見てしまった以上、事実として認めないわけにはいかないのです。そして、過ちは過ちとして断罪されるべきとする一方で、孟瑶が〈得難い才知の持ち主であると認めて〉いる聶明玦は、孟瑶が己の過ちを認め、改心するのならば再び〈正道を歩ませたい〉という意思を結拝において示しています。つまり聶明玦は、金光瑶のために彼の根性を叩き直すつもりでいたのです。
 対して藍曦臣の目に移る孟瑶はというと、常に衆人に見下され、嘲られ、それでも人知れず耐え忍ぶ不遇の人、そして何より温氏による雲深不知処襲撃の後、逃亡する己を窮地から救った恩人に他なりません。

他对蓝曦臣把孟瑶杀人嫁祸、诈死逃跑之事原封不动转述一次,听完之后,蓝曦臣也怔然了,道:“怎么会这样?是不是有什么误会?
聂明玦道:“被我当场抓住,还有什么误会?”
蓝曦臣思索片刻,道:“听他的说法,他所杀之人,确实有错,但他确实不该下杀手。非常时期,倒也教人难以判定。不知他现在到哪里去了?”(第48章)

【聶明玦は、孟瑶による金氏子弟の殺害とその転嫁、そして自害を騙った逃亡行為について、ありのままを藍曦臣に伝えた。これを聞いた藍曦臣は呆然として、「まさか、そんなことが起こり得ると?何か誤解があるのでは?」と言って信じなかった。
聶明玦は言った。「その場で捕えたというのに、どんな誤解があると?」
藍曦臣はしばらく考えて、「彼の言い分によると、彼が殺したという者は確かに過ちを犯した。しかし、だからといって殺すようなことがあってはならない。非常時には、誰しも適切な判断ができなくなるものだ。彼は今、何処にいるのだろう?」と語った。】

 上記の引用において、孟瑶による金氏の子弟殺害事件を目撃した聶明玦は、藍曦臣に事の顛末をありのまま伝えています。聶明玦の語る孟瑶と、己の知る孟瑶の間に決定的な隔たりを認めた藍曦臣は、聶明玦の語る孟瑶の姿は〈誤解〉であり、非常時ゆえの過ちであると決めつけて聞く耳を持ちません。
 さらにもう一点、原作から引用をします。以下の引用は、不夜天における温若寒討伐後の一場面です。温若寒の腹心を装うことで不夜天に潜入した孟瑶は、聶明玦の目前で聶氏の子弟を殺害し、後に聶明玦に糾弾されます。

孟瑶道:“温若寒性情残暴,平日稍有拂逆,便状若疯狂。我既是要伪装成他亲信,旁人侮辱他,我岂能坐视不理?所以……”
聂明玦道:“很好,看来以往这些事你也没少做。”
孟瑶叹了口气,道:“身在岐山。”
蓝曦臣手上不退,叹道:“明玦兄,他潜伏在岐山,有时做一些事……在所难免。他做些事时,心中也是……”(第49章)

【孟瑶は言った。「温若寒は残忍で、少しでも命に背けば激高します。私は彼の側近を装うのに、主を侮辱した者をどうして見過ごすことができますか?ですから……」
聶明玦は言った。「上等だ。思うにこれまでも、少なからずこのような悪事に手を染めてきたのだろう」
孟瑶はため息をついた。「私は岐山にいたのです」
藍曦臣は手を退けることなく、静かに言った。「明玦兄、岐山に潜伏していれば、不本意だが避けられないこともあるはず。そうせざるを得ない時、きっと心中では……」】

 ここにおいても藍曦臣は、孟瑶の行いには情状酌量の余地があるとして、聶明玦の言葉に耳を傾けようとしません。孟瑶の性質に、己の知らない別の側面があることを頑なに疑おうとしないのです。
 しかしその根拠はというと「はず」「きっと」と己の想像を並べるに過ぎません。つまり藍曦臣が信じる孟瑶とは、彼の想像の中の孟瑶であり、今彼の目の前にいる孟瑶その人のことを見ようとはしていないのです。言い換えるならば、彼は己が信じたい孟瑶の側面だけを見て、知りたくない 姿からは常に目を逸らしているのです。
 しかし十余年もの間、義兄弟として側にいればいつまでも同じ側面ばかりを見ていられるわけではありません。魏無羨と藍忘機が聶明玦の遺体(『陳情令』では刀霊)に誘われるように事件の真相を追っていくなかで、金光瑶の異なる側面が世人の目にも、藍曦臣自身の目にも徐々に明らかになっていきます。

魏无羡道:“蓝宗主,你心中知道,嫌疑最大的那个人是谁,只是你拒绝承认。”(中略)
默然一阵,蓝曦臣道:“我明白,因为一些原因,世人对他误解颇多。但……我只相信这么多年来我亲眼所见的。我相信他不是这样的人。”(第46章)

【魏無羨は言った:「藍宗主、一番疑わしいのは誰か、あなたは分かっているはず。ただ認めたくないだけだ」(中略)
しばらく押し黙り、藍曦臣は言った。「何がそうさせるのか、世人は彼に対し誤解がある。しかし……私はただ、長年この目で見てきたものだけを信じている。彼はそのような人ではないだろう」】

蓝曦臣以手支额,像是忍耐着什么一般,沉声道:“忘机,我所知的金光瑶,和你们所知的金光瑶,还有世人眼中的金光瑶,完全是不同的人!这么多年来,在我眼中,他一直是……忍辱负重、心系众生、敬上怜下。我从来坚信世人对他的诟病都是出于误解,我所知的才是最真实的。你要我现在立刻相信,这个人在我面前的一切都是假的,他设计杀害了自己的一位义兄,我也在他设计的一环内,我甚至助了他一臂之力……能否容许我更谨慎一些,再作出判断?”(第64章)
【藍曦臣は手を額に当て、まるで何かに耐えるように沈んだ声で言った。「忘機、私の知る金光瑶、お前たちの知る金光瑶、そして世人の目に映る金光瑶は全く異なっている。長年、私の目に映る彼は……屈辱を忍び、重責を負い、人々を顧み、上を敬い、下を哀れんできた。彼に対する世人の非難は誤解に基づいていると固く信じており、私の知る彼こそが真実であると。しかし、私の知る彼は全て偽りだと、すぐに信じろと言うのか?彼が自身の義兄弟を死に至らしめる計画を立て、私もその計画の一部にすぎず、彼に加担していたと……。慎重に判断する時間をくれないか?」】

 上記二つの引用は、事件の真相を追う魏無羨、藍忘機が得た状況証拠から、黒幕が金光瑶であることを推論し、藍曦臣へと訴える場面です。しかし、ここにおいても藍曦臣は金光瑶に対する世人の評価を〈誤解〉であると断じ、〈長年この目で見てきたものだけを信じている〉、〈私の知る彼こそが真実である〉と主張します。頑なに、己の信じる金光瑶の姿以外を真実として認めようとはしません。
 しかし先にも述べた通り、藍曦臣の信じる金光瑶とは彼の想像の中の金光瑶にすぎず、彼が〈長年この目で見てきた〉という金光瑶の姿が真実からほど遠いものであることは言うまでもありません。藍曦臣は、見たくない事実から目を背けることで、己の想像の世界を頑固に守り続けているにすぎないのです。
 かつて魏無羨が詭道を習得した時、藍忘機は〈修习邪道终归会付出代价〉【日本語訳:邪道を修めれば、代償を伴うことになる】(原作第62章)と魏無羨に忠告しました。魏無羨が邪道に身を落としていく姿は藍忘機にとって不都合な事実であったにもかかわらず、藍忘機はその事実から目を背けず、魏無羨のためにその行いを咎めることができる人でした。程度や姿勢こそ違えど、藍忘機と聶明玦の主張は同じで、彼らは相手を思うがゆえ、認めるがゆえに、その行いを咎め、否定し、正しい道を示すことができるのです。しかし、それが相手の心に上手く作用するとは限りません。
 対して都合の悪い事実から目を背けるという行為は、決して金光瑶のために行われているのではありません。自分が望むものしか見たくないという身勝手なエゴに過ぎないのです。

蓝曦臣原本也盯着那道帘子,只是迟迟没下定决心去掀。见不是他想象的东西,似乎松了一口气,道:“这是何物?”(第50章)
【藍曦臣はもともと垂れ絹を見つめていたが、ためらって帳をめくる決心ができなかった。彼は、そこにあるものが自分の最悪の想像とは異なっており、ほっとしたように見え、「これは?」と尋ねた。】

 ゆえに、藍曦臣は己の想像の世界が壊されることを恐れているのです。都合のいい想像で塗り固めた世界に閉じこもり、見たくないものは見ないし、聞きたくないものは聞かない。世人の見る金光瑶はすべて誤解と虚構の姿で、己の想像の金光瑶こそが真実である、と。
 つまり藍曦臣の行為は、己の「欲求」と「責任」の齟齬にうまく折り合いをつけているつもりで、その実、都合の悪い事実から目を背けることで己の欲求と責任の間の隔たりそのものを埋めようとしているにすぎません。己の欲求が責任によって妨げられるならば、欲求を正当化してしまえばいいと。何ら根本的な解決には至っていないわけです。
 幼い頃から無自覚的に、己の欲求をことごとく抑圧してきた彼には藍忘機のように、自身の欲求の善悪を判断し、自覚的に抑圧するということができないのです。物分かりの良い兄どころか、まるで聞き分けのない幼子のようです。人心、何より己の心に疎いがゆえのバグとしか言いようがありません。
 しかしそうしている間にも、彼の空想など知りもせず、現実は否応なく絶えず変化を続けるものです。彼が己の過ちを自覚した時には、すでに取り返しのつかない状況に陥っています。

金光瑶道:“事到如今,多做一样少做一样,还有区别吗。”
沉默片刻,蓝曦臣道:“你是为了抹灭痕迹吗。” (中略)
金光瑶道:“不全是。”
蓝曦臣叹了一声,没接下去。金光瑶道:“你不问我为什么吗?” 蓝曦臣摇摇头,半晌,答非所问道:“从前我不是不知道你做过什么事,而是相信你这么做是有苦衷的。”
他又道:“可是,你做的太过了。而我也……不知该不该相信了。”
他语气里带着深深的疲倦和失望。(第105章)

【金光瑶は言った。「こうなっては、事実が増えようが減ろうが、同じことでしょう」
しばらくの沈黙の後、藍曦臣は言った。「すべては痕跡を一掃するためか」
(中略)
金光瑶は「すべてではない」と語った。
藍曦臣ため息をついて、言葉を続けなかった。金光瑶は「理由を聞かないのですか?」と言った。
藍曦臣は首を振って、その問いへの答えをはぐらかした。「これまで、お前の所業を知らなかったわけではないが、きっと苦渋の決断だろうと信じていた」 彼は続ける。「しかし、お前は悪事に手を染めすぎた。私はもう……信じるべきかどうかわからない」
彼の口調には深い疲労と失望があった。】

 観音殿で金光瑶の悪事が明らかになった時、藍曦臣は〈お前の所業を知らなかったわけではない〉と語ります。〈きっと苦渋の決断だろうと信じていた〉とも。ようやく己の「見ないふり」を自覚した藍曦臣ですが、すでに手遅れです。彼が見て見ぬふりを続け、空想に逃げて咎めなかった時間の長さだけ、金光瑶の悪事は積み重なり、義兄弟の殺害に留まらず、実子を殺め、父を殺め、妻を死に至らしめた。
 それでも金光瑶は同情がほしい。そうしてできた隙につけ込んで、命だけは見逃してほしい。やむを得ない事情があったのだと、己の境遇がいかに不遇なものであったか、きっと藍曦臣であれば理解を示してくれる。金光瑶には藍曦臣に対するそのような期待があり、ゆえに彼は〈你不问我为什么吗?〉と藍曦臣に尋ねます。
 しかし藍曦臣はその問いに答えることを拒絶します。〈而我也……不知该不该相信了〉。藍曦臣は金光瑶の悪事が明らかになった途端、釈明も聞きたくないと彼を拒絶します。見たくないものは見たくないし、聞きたくないものは聞きたくない。あまりにも身勝手で、無神経な行いです。
 孟瑶が金氏の子弟を殺害する一部始終を目の当たりにし、激高した聶明玦でさえ〈你有什么逼不得已?〉という言葉を孟瑶に与えました。目の当たりにした事実と、孟瑶の釈明、その両方をもって公平な視点から罪と断じ、償わせようと。しかし藍曦臣は金光瑶に〈你有什么逼不得已?〉という言葉さえ与えませんでした。

魏无羡心知蓝曦臣对这个义弟多少还是留着几分情面的,总存着一丝莫名的期望,非给他这个说话的机会不可。恰好他也有些东西想听听金光瑶怎么说,于是侧耳细听。(第106章)
【魏無羨は、藍曦臣がまだこの義兄弟にいくらかの愛情を捨てきれず、漠然としたわずかな期待から、彼に話す機会を与えない訳にはいかないことを理解している。偶然にも、彼は金光瑶が語った内容を聞きたがったので、注意深く耳を傾けた。】

蓝曦臣眉目间有痛色,道:“纵使你父亲他……可你也……” 终是想不出什么合适的判语,欲言又止,叹道:“你现在说这些,又有何用。”(第106章)
【藍曦臣は悲痛な表情を浮かべた。「たとえ父親がそのような男であっても……お前は……」 結局のところ、彼は適切な言葉を続けることができず、言い淀み、ため息をついた。「今更言ったところで、何になる」】

 これ以降ずっと、藍曦臣の心は己の「欲求」「責任」「現実」「想像」をうまく処理することができず、エラーを起こし続けます。金光瑶の行いを罪と断じたからには釈明など聞くべきではない、しかし情状酌量の余地あらば免責の機会を与えたい。ゆえに、金光瑶が話し始めれば耳を傾けるが、それに理解を示すことは己の立場が許さない。
 今までそうであったように、ここに至っても己の欲求と責任に折り合いをつけることができない藍曦臣は、この状況のなかで正常な判断力や思考力を奪われていきます。それまで器用に見るもの/見たくないものの取捨選択を行ってきた藍曦臣ですが、此処では何を見ればいいのか、何を見てはいけないのか、適切な判断ができないのです。
 そしてこの思考の停滞が、最後の悲劇につながるわけです。

那边蓝曦臣给金光瑶处理伤口,见金光瑶疼得快晕过去了,原本想借此惩戒他一番的蓝曦臣终究还是于心不忍,回头道:“怀桑,方才那瓶药给我。” 聂怀桑吃了两粒止了疼便把药瓶收进怀里了,忙道:“哦,好。”低头一阵翻找,摸出来正要递给蓝曦臣,突然瞳孔收缩,惊恐万状地道:“曦臣哥小心背后!!!”
蓝曦臣原本就对金光瑶没放下提防之心,一直绷着一根弦,见了聂怀桑的表情,加上他这声惊呼,心中一凉,不假思索地抽出佩剑,往身后刺去。
金光瑶被他正正当胸一剑刺穿,满脸错愕。
(中略)
蓝曦臣看起来失望至极,也难过至极,道:“金宗主,我说过的。你若再有动作,我便会不留情面。”
金光瑶恶狠狠地呸了一声,道:“是!你是说过。可我有吗?!”
他在人前从来都是一副温文尔雅,风度翩翩的面孔,这时居然露出了如此市井凶蛮的一面。见他这幅大为反常的模样,蓝曦臣也感觉出了什么问题,立即回头去看聂怀桑。金光瑶哈哈笑道:“得了!你看他干什么?别看了!你能看出什么?连我这么多年都没看出来呢。怀桑,你可真不错啊。”(第108章)

【藍曦臣は金光瑶の傷の手当てをしていた。金光瑶が痛みで気を失いそうになるのを見て、元々彼を罰して戒めるつもりだった藍曦臣は結局忍びなく、ふり返って言った。「懐桑、さきほどの薬瓶をくれ」 聶懐桑は痛みを和らげるために薬を飲み、薬瓶を袖の中へとしまったが、慌てて「ああ、わかった」と返事をした。彼はうつむいてしばらく懐を探り、それを見つけて藍曦臣に渡そうとした時、慌てふためき、ひどく驚いたように叫んだ。「曦臣哥、後ろに気を付けて!!!」
藍曦臣は元々金光瑶への警戒を怠らず、常に神経を尖らせていた。聶懐桑の表情を見て、その上彼が慌てて叫ぶので、血の気が引き、考える間でもなく即座に剣を抜き、身を翻して後ろの男に突き立てた。
金光瑶は剣に胸を貫かれ、その表情は驚愕の色に満ちている。
(中略)
藍曦臣は心から失望し、悲しんでいるように見えた。「金宗主、言ったはずだ。もし抵抗すれば、私は容赦しないと」
金光瑶は忌まわしげに言った。「そうです!あなたはそう言った。しかし、私が抵抗しましたか?」
彼は常に、人前では温和で、品があり、愛想よく振る舞っていた。そしてこの時、彼は実際に残忍な顔を見せた。常とは異なる彼の様子を見て、藍曦臣は疑問を抱き、すぐに聶懐桑を振り返った。金光瑶は笑った。「無駄です!なぜ彼を見るのですか?見ないでください!あなたに何が見えますか?長年、私でさえ気づかなかったのに。懐桑、あなたはとんだ食わせものだ」】

 この時、藍曦臣が判断の基準としたのは〈聶懐桑の表情〉です。彼は金光瑶が本当に己に敵意を向けたのか、金光瑶その人自身を見ることなく判断したのです。
 この場面、ドラマ『陳情令』においては、金光瑶を振り返った藍曦臣は両目を固く閉じており、金光瑶を見ることを完全に拒絶しているのですね。金光瑶を罪人と断じて異なる側面をもう見たくなかったのか、あるいは、信じていた男が己に刃を向ける現実を見たくなかったのかもしれません。どちらにしろ、藍曦臣は金光瑶を「見ない」という選択をしました。身勝手なエゴのために、彼は無抵抗の金光瑶の胸に剣を突き立てたのです。
 金光瑶は問います。〈你能看出什么?〉あなたに何が見えますか?と。金光瑶の言うとおり、長年ずっと己の見たいものだけを都合よく見続けた藍曦臣に、今更公平な視点で真実を見抜けるはずがないのです。藍曦臣の目は身勝手なエゴのために、あまりにも曇りすぎています。彼の見ないふりが、彼にとっては最悪の結末を招いたわけです。

(この状況で金光瑶と共に死ぬことを受け入れた藍曦臣と、それを望みながら最終的には藍曦臣を拒絶した金光瑶については、物語論の観点から別稿で触れたいのでここでは割愛します。)

 観音殿の崩壊後、藍曦臣は聶懐桑に尋ねます。

蓝曦臣扶额的手背上筋脉突起,闷声道:“……他究竟想怎样?从前我以为我很了解他,后来发现我不了解了。今夜之前,我以为我重新了解了,可我现在又不了解了。”
没有人能回答他,蓝曦臣惘然道:“他究竟想干什么?”
可是,连和金光瑶最亲近的他都不知道,旁人就更不可能会有答案了。(第110章)

【藍曦臣は額に手を当て、はっきりしない声で言った。「……一体、彼は何を望んでいたのだろう。以前は彼をよく知っていると思っていたが、それが思い違いであったとわかった。今夜までに、もう一度理解したと思ったが、今はまたわからない」
彼に答えることができる者は誰一人いない。藍曦臣は呆然として言った。「彼は一体何を望んでいたのだろう?」
たとえ金光瑶に最も近しい彼でさえ答えを知らず、まして、世人に答えることなどできるはずがない。】

 〈从前我以为我很了解他〉という一節、『陳情令』では〈私こそが彼の理解者〉と字幕がついていました。翻訳者の方にひざまずいて金一封を贈呈したい。〈私こそが彼の理解者〉。自惚れも大概にしてほしい。エゴイズムの極致です。そうなのです、藍曦臣の金光瑶に対する行いは、最初から最後まですべて己のための身勝手なエゴにすぎないのです。
 理解者でありたい、恩人に報いたいという欲求から金光瑶の行いを咎めることができず、しかし世家の家主という立場である以上、気づいたからには見逃せない。己の欲求と責任の間で板挟みになり、その結果、彼はどちらか一方を選ぶことができず、都合の悪い事実から目を背けることを選んだのです。彼は最後まで「金光瑶のために」どうするべきかという、相手を慮る視点を有することができませんでした。

 藍曦臣の「見たいものだけを見ていたい」という、自分の空想の世界に身を隠す悪癖。実はこれ自体も、彼の幼少期の環境に直接的に由来するものです。

他道:“蓝夫人一定是个很温柔的女人。”
蓝曦臣道:“我记忆里的母亲,的确是这样的。我不知道她当年为什么要做那样的事,而事实上,我也……”
他深吸了一口气,坦白道“并不想知道。”(第64章)

【魏無羨は言った。「藍夫人は、きっと優しく穏やかな女性だったのでしょう」
藍曦臣は言った。「私の記憶にある母は、確かにこのような人だった。その当時、なぜ母がそのようなことをしたのか分からないが、実を言うと、私も……」
彼は深く息を吸って、「知りたくない」と告白した。

 藍曦臣が己の目で見た母の姿と、叔父の口から語られる母の姿の間には、埋められない隔たりがありました。月に一度、目にする優しい母の姿が彼にとって真実である一方で、父の恩師を殺めたという母の姿もまた真実に違いなく、この事実は彼の信じる母の姿を常に否定し続けます。
 ゆえに彼は、己の目に映らない母の姿を〈知りたくない〉のです。それがたとえ真実であったとしても。己の目で見た優しい母の姿だけが真実であってほしい。そのために知りたくない真実からは目を背ける。このように彼は、幼い頃から自分の想像力に非常に頑固に生きてきたのです。

 観音殿で金光瑶が犯した悪事の真実を知り、彼の想像の世界が一晩で崩壊したあと、藍曦臣がどうするかというと彼は〈整天闭关〉(原作第113章)します。一日中寒室に籠って、世俗と一切の関わりを絶つのです。結局彼は見たくないものから目を背けることしかできず、己の世界に閉じこもり、またもや何も見ないことを選びます。

能拆穿亲弟弟的小心思并不代表也能拆穿别人的,能成为家主也并不非要心思深沉明察秋毫,……(後略)(著者あとがき)
【藍曦臣は弟の思考を暴くことができるが、それは決して、他者の心を暴けるという意味ではない。また家主であるということは、思慮深く、細やかな気配りができるという意味ではない。……(後略)】

 上記の引用は『魔道祖師』著者、墨香銅臭氏によるあとがきです。
 本来、人心を理解するには経験が必要不可欠で、何を言えば人は喜ぶのか、あるいは怒るのか、何を言われれば自分は喜ぶのか、怒るのか、それらは人との関わりを通して学んでいく必要があるものです。しかし、自身の心を抑圧し続け、かつ外界から隔絶された雲深不知処で一定以上の教育を受けた者としか関わってこなかった藍曦臣には、これらの経験が圧倒的に不足しているのですね。
 長年厳格な叔父に接し続けてきたおかげか、礼儀礼節は必要以上に身についており、善悪の判断も限りなく公平に近い視点を持っている。ゆえに彼は他者を不快にさせることはなく、一見誰とでも調和がとれているように見えます。
 また藍忘機の表情を読み取り、その感情もある程度理解できるのは、彼と長年兄弟として身近に接してきた経験があるからです。ゆえに、その経験が他者にも通じるかというと、そう都合よくはいきません。
 一見、誰よりも慈悲深く、誰よりも人心の機微に敏いように見え、その実誰より人心に疎い。藍曦臣には、他者を意図的に喜ばせることもできなければ、意図的に傷つけることもできません。彼は無自覚的に多くの人を幸福にしてきた一方で、無自覚的にいくらかの人を傷つけてきました。金光瑶はきっと、そのうちの一人にすぎないのです。